走らされすぎたメロス

日記

これはおそらく日記ではない。

私は八角が好きではない。スターアニスとおしゃれっぽく呼ばれているのもかんに触る。スターときてアニスと来ると、私の頭には肛門だとしか思えない。スターでアヌスだぞ?1

子供の頃、豚肉の煮物の中に八角がよく入っていた。 我が家の煮込み料理は基本的に煮込みすぎで、しょうが、にんにく、八角などの小さな内容物は全て煮砕かれ、『名付け以前』とでも言うべき原初状態を取り戻していたため、私があのフレーバーと八角を結びつけるのもずいぶん遅れてからだった。 したがって、八角が嫌いだと私が自覚したときには、私は既に好き嫌いを言っていられるような年齢ではなくなっていた。それゆえ、私は嫌いなものをそれと知りながらずっと食べ続けることになった。 これが私の精神的発育にもたらした影響は計り知れない。

これは私の好き嫌いの話だった。この話をしていたら、私が八角を八角だと認めた頃の記憶がよみがえってきた。それは中学何年生かの時で、暇つぶしに読んでいた国語の教科書には、確かこんな話があった……。

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アニスである。

走らされすぎたメロス

知っているように、メロスは全裸になって必死こいて爆走した。いつも牧場で一人マスを掻いてる狂人が全裸で喉から血を吐きながら爆走した――これはそうとう面白かった。だから町の人々にかなりウケた。そんなわけで、メロスの話は町中に広がった。悪乗りしたメロスの妹が「走る全裸の兄」という判子を作って、インタリオの指輪を作った。これがヒットした。町では全裸のメロスの彫られた指輪をつけるのがはやった。集会にわざと遅れていって「おれのセリヌンティウスはどこだ?」と言うのもはやった。全体としてはメロスを馬鹿にする方向で話は進んでいた。

いつの間にか、ソドムやアゴラといった町にもメロスの話は伝わっていった。観光客たちが一目見ようと集まってきた。何十人もの人々がメロスの牧舎までやってきて「走れ!」と叫んだ。何人かは棍棒を持っていて、何人かは金を持っていた。それらはふさわしい使用方法でメロスに使用された。

結果、メロスは無目的に走らされた。観客は喜んだ。これがメロスだってさ! すげぇ、マジでいるじゃん。服を剥ぎ取ってやろうぜ。町人は勝手に名産品を作った。メロスまんじゅうが飛ぶように売れた。さらに噂が広まった。メロスはまた走らされた。二ヶ月に一回だったのが、一ヶ月に一回になり、数日に一回になった。沿道には観光客や巡礼者、スリ、性風俗従事者、商人、暇を持て余した男たちが並んだ。はち切れそうに肥えた奴隷商が訪れ、主人を殺した奴隷が逃げ込み、それを追うものが後に続いた。血のにおい。ぶどう酒の匂い。山羊の匂い。食物の匂い。それらがメロスの汗のにおいを隠した。いつしか川でメロスをたたきのめした盗賊たちがしかるべき場所に配置された。メロスは彼らと目的のない死闘を演じた。フィロストラトスも買収され、毎日のように自分はセリヌンティウスの弟子だと告白することになった。

「どうも、フィロストラトスです。メロスさんこんにちは」

 メロスは答えなかった。フィロストラトスはメロスのサンダルを踏んで転ばせた。道に転がっているメロスを見ながら、

「もう駄目ですけど頑張ってください」

と言い、極めて簡略化された形ではあるものの、自分自身の役目を果たした。これには市井の人々の間でも賛否両論あったが、現象とは一回ごとに細かな差異を示す(大前提)、メロスが走るのは現象である(小前提)したがって、このような簡略化も起こりうる(結論)という形式的に洗練された議論の末に認められた。

「走れメロス!」「今日のメロスは調子が悪いねえ」「ケツに棒でも入れた方がいいんじゃないか」「ぬへへ」「メロスまんじゅう売ってますよ」「ちょっといいことしてかない?」「ぶっ殺してやるからな!」これらの営みによって生み出される莫大な富は、メロスには一切流れて来なかったが、メロスが通り過ぎるときに起きるつむじ風が沿道の人に心地よい風を送っても、走っているメロスはまったく涼しくならないのと同じように、これも全く道理にかなったことだと見なされていた。

メロスが走るのをやめようとするたびに、誰かがやってきては慰留した。メロスが走ることで、どれだけこの町が潤っているかが蕩々と説明された。それらはすべて正しいようにメロスには思われた。メロスの妹はすでに奴隷の数を二倍にしていた。孔雀の羽が足りないほどの食事が並んでいるとの噂だった。メロスのサンダルが摩耗した。服もすり切れていった。毎朝、憲兵がやってきては彼の脇腹を槍でつついた。メロス、走れ。

丸一日かけてたどり着いた先には、いつものようにセリヌンティウスがいた。メロスは「俺を殴れ」とは言わない。しかしセリヌンティウスはメロスを殴る。正確にはセリヌンティウスに雇われているそこらへんの奴隷が殴る。

「メロス、俺はおまえのことを疑ってないからな。だからおまえが俺を殴る理由はないからな」

メロスが殴り返すシーンは、様々な政治的動力学によって省略されることが一般的になっていた。メロスはセリヌンティウスを見た。正確には、セリヌンティウスの代役を見た。彼はメロスの視線に気がついた。そして不思議そうな顔をしながら「二発でしたっけ」とメロスをもう一度殴った。人の心を取り戻した王の下には、様々な陳情が舞い込んできており、彼は多忙を極めていた。したがって、全裸の男性が殴られるのを見ていられるほど暇ではなかった。マントをくれた町の若い娘も、初めのうちは心配していたが、メロスが山羊を使って『自らを慰めて』いるのを目撃してからは、さっぱり来なくなった。そして「メロス( じる ) 」という料理を観客に振る舞って財をなすようになった。したがって、メロスが走る催し物はここで、つまり、メロスが特に関係のない男に殴り飛ばされるところで終わった。観客は「これ以上なんかあったっけ?」「俺たちに何か見せてぇんだろ」「ストリップかな?」「うへへへっ」と笑い、三々五々帰っていった。そして地元に帰り、薄めたワインを飲みながら、シラクサにいるなんとかとか言うアホがいて、ひたすら走ってて爆笑、というふうに伝えた。これを聞き、じゃあおれもいっちょ見に行ったるか、とほかの男たちも奴隷を引き連れてシラクサに行くのだった。

人の波が引いた後、メロスはゆっくりと体を起こして、とぼとぼと帰り始めた。帰り道で懐かしい友人に会った。彼は近づいて、「セリヌンティウス」と言った。彼はひげの生えていない少年を連れていた。

「セリヌンティウス、私だ、メロスだ」

セリヌンティウスはメロスのことをじっと見た。そして「俺にはメロスという知り合いはいないよ」と答えた。その目にはどんな光もなかった。人差し指にはめた指輪の宝石が、どこかの炎をより赤くしてきらめいた。メロスはその光をじっと見た。それから、観客たちが捨てていったぼろきれを拾い集めて、またじりじりと這うように家に帰っていった。

何日か経って、誰かの私兵がメロスの家にやってきた。走ってもらうぞ。命つきるまで走ってもらうぞ。走れ、メロス。部屋に入る。メロスの姿はなかった。そこにはぼろきれと水の入ったかめ、そして刃の欠けた 鉄鎌 ( シデーロス ) が置いてあった。ぼろきれには血がこびりついていた。私兵たちは顔を見合わせて、死んだんだろうと推定した。それから、彼の死が名誉の死であるか、少し議論した。おそらくそうではないだろうと結論が出された。そして彼らは帰った。町に戻ったとき、彼らは自分たちが午前中に何をしていたか思い出せなかった。

その夜、セリヌンティウスが少年を抱いて寝ている夜、メロスが木のドアを開けて滑り込んだ。彼の足は音を立てずに動いた。彼は大きな樫の棒を持っていた。それには羊の脂がしみこませてあり、ずっりしりと重かった。彼は夜のひだをめくりながら、湿った風のようにセリヌンティウスの隣に立った。そして棍棒を振り下ろして、彼の隣で寝ていた少年を一発で撲殺した。セリヌンティウスが起きた。

「誰ぞ?」

間があった。彼らはお互いに見つめ合った。セリヌンティウスは棍棒を眺めた。それは小窓から差し込む月の光で、つるつると光っていた。セリヌンティウスは頷いた。指から全ての宝石を外して、床に置いた。木の戸で小窓を塞いだ。暗闇に目が慣れるのを待った。遠くで犬が吠えた。そして彼は頭を垂れた。

「やれよ」

メロスは待っていた。そして何も起きないことを確認すると、棍棒をゆっくりと床に置いた。彼は何も言わずにきびすを返した。まるで、体の周りに無数のろうそくがあって、それを一本も消さないように動いているみたいだった。メロスは部屋から出て行った。

次の朝、フィロストラトスの死体が川に浮かんだ。メロスはぱったりと姿を消した。街の人々はメロスが自殺したと思っていた。季節が変わる前に、彼にまつわる全てが忘れ去られた。彼の飼っていた山羊は冬を越せずに死んだ。

これが走らされすぎたメロスについての話だ。