根暗のクソ野郎が髪の青いパンク女にバカほどハマるこれだけの理由

八歳の娘で自慰行為をするようなやつはチャーチズのメイベリーでも抜く。彼女の政治的スタンスなど関係なしにだ。我々はそういう時代に生きている。

情報化社会は人々にほかの人々の存在を知らしめた。あなたがもし、人がまるごとで評価されるようになると思っているなら、それは間違いだ。人は自分の見たい側面を残して、後は徹底的に白塗りする。他人の人間性だけが剥落していく。内側から見た我々のエゴは肥大し続ける。

チェスター・ベニントンは百万人を自殺から救ったが、その百万人はチェスターを自殺から遠ざけておけなかった。ヨーロピアンの女で性的欲求を解消したい人間にとっては、エマ・ワトソンも胸囲に物足りないところのある女に過ぎない。

これは厳しい現実だが、受け入れざるを得ないものでもある。

これと関連していそうに見えるが、実はあまり関係ない話で1、根暗で異性愛者の男は髪の青いパンク女にどうしようもなく惹かれるという話がある。

飲み会には行かず定時で即帰宅しているやつ、学校では何事も中程度の無害なやつ、休日で声を出すのはコンビニの店員に「ありがとうございました」と言うときだけのやつ、(にも関わらず、内心ではおれはコンビニ店員に感謝できるんだぞと得体の知れない自尊心を抱えているやつ)、毎週一回は近くの図書館に行って、小説やら科学読み物を借りて読んでいるやつ、趣味は?と聞かれたとき、うまく返せずに「あー……」と言うやつ、こういう奴らは間違いなくパンク女が好きだ。しかも青い髪の。


例えば、そいつが『プリティーリズム・レインボーライブ』を見たとしよう。

全てが終わった後で、そいつに「どのキャラが一番好き?」と聞いたとしよう。そいつは間違いなく、一瞬悩んで、「やっぱりなるちゃんかな」とか「べる様かなあ」とかほざく。

嘘である。

そいつが好きなのは、間違いなく涼野いとだ。そいつがいくら両親に言われて日能研に通わされていて蓮城寺べるに共感するところがあるとしても、そいつがいくらかわいいもの好きで、寄らば大樹の陰と思って「彩瀬なるが好き」と取り繕おうとも、そいつは間違いなく涼野いとが好きだ。プリティーリズム・レインボーライブを見たことのない人に説明しておくと、涼野いとは第5話で

「いとちゃんはいらっしゃいませが言えるようになりました」

と主人公に向上心のあるところを指摘されるような女だ2。こいつの髪の色は青い。そしてパンクである。

もし「てめえ、なんでいとちゃんが好きなんだよ」と聞いても、おそらく曖昧な答えしか返ってこないだろう。彼らはどういうこともできず、とにかく涼野いとに惹かれる。


そいつらに『ライフイズストレンジ』をやらせたとしよう。ゲームが終わった後で、「どっちが好きだった?」と聞いたとしよう(このゲームには主要キャラがふたりいる。マックスとクロエだ)。

明らかに、根暗な男たちはマックスの方に親和性が高い。写真の専門学校に通うマックスは内向的な性格で、暇さえあればポラロイドカメラでスナップを撮っている少女だ。人に何かを打ち明けるよりも日記に書く方を好む。染髪はしない。下着は2年使ってから棄てる。先生からコンテストに写真を出せと言われても、なかなかすぐには提出できない。友達は少ししかいない。そういうタイプの人間だ。

もちろん、彼らは「マックスかな、主人公だし」とか答える。

彼らは嘘をついている。

彼らは内心では間違いなくクロエのほうを選んでいる。

青い髪の、ドラッグやり放題、ジャンキーと 取引 ( ディール ) し放題、母の再婚相手を挑発し放題、学長の息子を恫喝し放題の女の方を選ぶ。彼女は退学処分まで受けている。彼女は血のつながってない父親のガレージから拳銃を奪って、「ガン・コントロールは男にだけ適用される話だよ」と言ってのけさえする。そういう女を選ぶ。破滅的で、突拍子もなく、ゆがんでいて、うっかりすると死にそうな女の方を選ぶ。そして実際に、彼女はゲームが始まって数分で死ぬ。

ここで注意しておきたいのは、クロエが明確に同性愛者だと書かれていることだ。オタク君がどれだけ頑張ろうと、クロエとどうこうできる未来はない3。にも関わらず、根暗な男はクロエを選ぶ。クロエっていいよね。目がいい。そういう話をする。2/5ちゃんねるに書き込みさえする。英語圏のオタクからなんとかしてエロ画像をもらったりする。それは一度も使われずにSSDの肥やしになる――もし、SSDが栽培可能としての話だが。


ストリートファイター5』でも同じ事が起きる。

スト5って言ったら 春麗 ( チュンリー ) だよね、とか、新規参入のルシアもかわいいよねとか、やっぱりキャミィでしょとか、スピニング・バード・キックとか、大フラチョに確反もらってるアレックスでしょとか、やっぱりストリートファイターといったらリュウでしょ、とか色々あるが、彼らが選ぶのはジュリだ。声優が喜多村英梨だからとかそういう理由ではなく、彼らはジュリを選ぶ。

ジュリのことを知らない人向けに2秒で説明すると、ジュリは韓国出身のサディストで、『ブレードランナー』に出てくる女キャラ(ホリィだったか?)みたいなしゃべり方をする。あってないようなストーリーにおいては、壊滅した悪い組織の工作員という立ち位置だ。あと、体にぴたっとあったライダースーツを着ているため、全体的にやや性的だ。説明の仕方が雑なのは、ストリートファイターというゲームが基本的に極めて雑にできているためだ。

彼らは自分たちでも説明できない理由でジュリに惹かれる。ジュリのストーリーをクリアし、ジュリでコパコパ昇竜を練習し、ジュリの最大コンボを決め、Vトリガー1からパワハラを決めて喜ぶ。なんでジュリを使うんだ、と聞かれると、彼らははにかみながら「全体的にややエッチだから」と答えるが、内心ではまだ理由を探している。なぜおれはこのキャラを使おうと思ったんだ? 何が決め手なんだ?

答えはない。


謎の資本から金銭が大量に注入されているGEMS COMPANYの中でいったら誰かと聞かれたら、彼らはもちろんみずしーこと水科葵をあげるだろう。みずしーかわいいよみずしー。彼女は内側を青く染めたショートカットのパンク女で、納豆にケチャップを入れて食べ、レトルトカレーのことを『ぶくぶくカレー』と呼ぶ。両親は自営業で、夕食が簡単なものになることも多い。ギターは弾けないがピアノを弾くことはできる。一人称が「あえし」――そういうやつだ。

根暗なオタクはこういうやつに弱い。ほかの、眼鏡をかけたなんとかとか言うやつも、スポーツ好きの腹筋バキバキななんとかちゃんも、水科葵を退けるほどの力は持っていない。


実際のところ、なぜ彼らはこれほどまでにパンク女に惹かれるのだろうか? 

私が思うに、これは、彼女たちがある意味で踏み越えてしまった存在で、根暗なオタクというのは一線を踏み越えたいと思っても越えられない種類の人間だからだ。

『赤と黒』のジュリアン・ソレルや『罪と罰』のラスコーリニコフがナポレオン・ボナパルトに憧れるように、オタクは凡人と非凡人の境界を(それが真に存在するものであろうとなかろうと)痛いほど意識している。そして、常に引きこもりのオタクは内側にいる。線を踏み越えられなかった側、凡人の側、しょうもない人生を送る側、統計の数字を1つあげるだけの存在、匿名に生まれ、匿名に死ぬ類いの存在だと認識している。

パンク女はその外側にいる。というか、パンクはその境界の存在を否定する。

「いいじゃんそんなんどうだって」

と中指を立てる。着たいものを着る、染めたい色に染まる、鳴らしたい音を鳴らす――彼女らは凡人・非凡人の二分法を避ける。いいだろ別にあたしには関係ないだろ、彼女たちには彼女たちの禅がある。そして、その禅によって、オタクから見ると彼女たちは一線を越えているように見える。

そして、彼らは我々に一線を越えさせてくれる。我々が引きこもっている部屋から連れ出してくれる。古くからのおもちゃ箱が置いてある我々の部屋から。


この部屋はもしかしたら我々の実家の子供部屋でしかないかもしれない。しかし、ここには我々が子供時代から引きずってきたおもちゃ箱が置いてある。その中にはティッシュに向かって吐かれた精液の匂いや、ガンダムのプラモデルや、いつからかやめてしまったテニスのボールや、六歳の時の夢4が入っている。我々はそれを知らぬ間に引き連れてしまう。それがおいてある部屋でそのとき付き合っている女と将来を語り合ったりする。

そしてその夜、おもちゃ箱から黒い思い出やくすんだ色の夢があふれ出して、我々の足首をつかむ。十四歳の時に好きだった女の子の顔がよぎる。おもちゃ箱は我々を都合のいい世界に、つるつるした世界に引きずり込もうとする。

それは一線の向こう側の世界だ。それはあらゆる夢が叶った世界のヴィジョンだ。我々はそれに抗う力がない。そして我々はまた全てをぶち壊しにしてしまう。もしかしたらあちら側に行けるかもしれないと思ってしまう。最悪なのは、このおもちゃ箱それ自体には、全く我々を向こう側に運ぶ力などないという点だ。おもちゃ箱は我々に夢を吹聴するが、実際に手を貸してくれることはない。

このおもちゃ箱はときおり、ノスタルジックの世界と呼ばれたりする。正確には、経験しなかったノスタルジックの世界と行った方が正しい。例えば、2012年の涼しい夏の日と言われたとき、あなたが思い出す日に似ている。2014年の冬、真夜中に雪が降った。その夜、私は道路の真ん中に立って、ただ静かに降り積もる雪を見ていた。街灯が私と雪を照らしていた。このような類いのノスタルジックだ。

トルーマン・カポーティはこのおもちゃ箱の存在を知っていた。彼が驚異的だったのは、彼はこのおもちゃ箱を開けて、何が入っているかをつぶさに調べられたことだった。『クリスマスの思い出』という短編では、彼は自分の思い出をかき回しながら、それを大人になった自分の手で添削して、傑作にまで高められた。彼はそれを極めて意識的に行った。傑作を量産した。結果として、彼は自分の思い出を破壊的にむしばみ(おもちゃは遊んでいるうちに壊れるものだ)、逆にむしばまれもした。そして彼は自殺した。

多くの人が、このおもちゃ箱の危険性を――その存在を知らないにせよ――理解している。彼らは無意識的に子供時代に区切りをつける。成人式に出る。昔、好きだった同級生が思いのほかブスだったことを知る。イケメンだった佐竹君がハゲ始めていることを知る。大人になる。諦める。納得する。成長する。昔はそんなこともあったね。こうしないと命取りになることを知っているからだ。

オタクにはこれができない。オタクはおもちゃ箱にそそのかされる。

多くの大人たちはなんとか我々を治療しようとする。我々もなんとか治療されようとする。デパスを飲んだりする(私は幸運にも 医者も薬もなし ( ノードラッグ・アンド・ノードクター ) だ)。医者と大人たちは部屋のドアから入ってくる。

「おもちゃ箱はどこだ?」

と彼らは聞く。我々には答えられない。それは夜になると出てくるものだからだ。大人たちは我々に武器を渡してくれる。聖書と斧とオナホールと……まあなんでもいい。何を渡されようとも、私たちにはどうすることもできない。私たちは知らず知らずのうちにおもちゃ箱の存在を愛憎半ばする気持ちで受け入れ始めている。少なくとも、それは私たちに燃料を注ぐのだ。破滅的であっても。私たちはおもちゃ箱にそそのかされたくない、しかし、これがなくなってしまったら、我々は本当にどうするのだ


パンク少女は別の場所から入ってくる。彼女たちは窓から入ってくる。そして

「とっとと来いよ カス野郎 ブチ殺すぞ」

と我々を誘う。そういうものだ。もしくは既に部屋で待っている。とにかく、我々の予期しないやり方で我々のところに訪れる。そして強制的に私たちを連れ出す。それは抗えない力だ。パンク少女は自分たちの禅を持っていて、そこには『ならば』とか、『かつ』とか『または』とかそういう高級なロジックはない。「やりたいことをやる」これだけだ。いとちゃんになんで髪を青くしてるんだと聞かれたら、「染めたいから」と言われるだろう。ジュリがシャドルーで悪事を働いていたのは単に働きたかったからだろう。

これがパンク女たちの力だ。『あの夏で待ってる』の谷川は、髪が青いがこの力はない。暴力的なまでの率直さは向こう側に連れて行ってくれる力だ。トマス・ピンチョンが『ヴァインランド』で述べるように、ある個人の圧倒的な力に押し流されることは、ある種の快楽でもある。というのも、国家や権力といった不可視の巨大な力ではなく、これは原始的な単純さを持っているからだ。理解しやすく、そして心臓の鼓動に直接響く。あんたバールもってこいよ。学校に忍び込んでやろうぜ。親父の拳銃取ってきたんだ。納豆にケチャップ入れちまおうぜ。波の力を体いっぱいに受けるのが快楽であるなら、パンク少女に隷属するのも喜びだ。

そして、この力によって、私たちはおもちゃ箱を遠ざけておける。ノスタルジックの世界なんて出したら、パンク少女はブチ切れるだろう。なんなんだよそれは、と叫ぶだろう。パンク少女といれば、夜になっても、体験してもいない思い出が我々の影から出てくることはない。なぜか? パンク少女に夜は来ないのだ。極めてカトリック的な表現を使えば、彼女たちは汚れた土地からやってきている。もちろん、涼野いとちゃんは14歳で非処女だ。汚れた土地には昼が来ない。なら、何をもって夜と名付けるのだろうか? パンク少女には夜は来ないのだ。


もちろん、我々は彼女たちを濫用している。

彼女たちは単なる救出のツール、穴抜けのひも、キメラの翼ではない。彼女たちにも、髪を青く染めるまでの過程というのがある。クロエは母の再婚から逃避するためにパンクに逃げた。ジュリは没落した上流階級の女だ。みずしーがパンクなのと、水科葵の両親が自営業なのには何らかの関係があるだろう。「イチカ、なんか今日暇? なんか飲みしようって話になってなんか誘ってみたんだけど、なんかこない?」といったような呼び声が彼女たちを追い詰めたり、ドラッグとアルコールとセックスとニコチンというお決まりの四人組が彼女たちを冒涜したりする。精神安定剤をビールで流し込み、ウォッカとオレンジジュースが蓋をする。彼女たちが寝ないのは、寝ると必ず温室の夢を見るからだ。柔らかい光で包まれた温室で、陶器の(陶器でなくてはいけない)ティーポットから紅茶を入れて飲む夢だ。わかりやすい幸福の夢、彼女たちにはもう手に入らない夢を見るからだ。

畢竟、パンクもあるムーブメントやスタイルでしかない。彼女たちが黒い革のパンツをはくのは、みんながそれを履くからだ。目の下を青く化粧するのは、それをやるとクールに見えるからだ。彼女たちも、弱いひとりの人間でしかない。

我々は彼女のそういう面をできる限りそぎ落として接してしまう。パンク少女は常に暴力的でなければいけない。圧倒的でなければいけない。笑うときはギザ歯でなくてはいけない。そういう条項が課せられる。弱さを認められない。

それゆえ、本当のパンク女と知り合うと、必ず軽い失望を覚える。結局のところ、彼女たちが髪を青く染め、破れた服で身を包むのは、自分にけりをつけたからでも、自由になりたかったからでもない。彼らのロジックが洗練された単純さを持っているからでもない。彼女らは九九の怪しい、単に縋るものを求める女たちで、その縋る先が漆黒AGEHAみたいなパンクバンドだっただけだ。実際、パンク女たちのうちの何人かは、Instagramでいいねをもらうことが生きがいになっている。


つまり、根暗なオタクに取って、パンク少女はどうにかして自分たちを連れ出してくれる極めて便利な装置に過ぎず、もちろん、我々は装置に性的欲求の充足や、ソリッドな実在を求めたりはしないものだ。彼女たちは常にフィクショナルな存在でなければいけない。

これが根暗なオタクが髪の青いパンク女が好きな理由だ。

あなたがこの態度を、自己中心的な、エゴにまみれた考え方というなら――それはじっさい真だ――このブログの最初に戻るといい。

人は自分の見たい側面を残して、後は徹底的に白塗りする。他人の人間性だけが剥落していく。内側から見た我々のエゴは肥大し続ける。

これは厳しい現実だが、受け入れざるを得ないものでもある。


1

要するに、私は今から特に関係ない話をする。なに、メイベリーで抜く話をしたかっただけだ!

2

一度はっきりさせておくが、14歳の子に『女』という形容をするのが道理にかなったことだとは、私は思わない。

3

なぜだろう?私には、彼女がゲームの中の人物であることは、彼女の性的傾向に比べると些細な問題であるみたいに思える。フィクションの女との関係――私にとっては違和感のない表現だ。

4

あなたは6歳の時の夢を覚えているだろうか?私は覚えている。あなたも覚えているはずだ。忘れたとは言わせない。